2011年11月16日水曜日

僕と祈り祈られの日々

トチ狂って会社を辞めて留学してしまったので、


卒業後の就職先を探さねばなりません。


いまは来年夏のインターンシップを巡って


猛烈な椅子取りゲームが展開しています。


どこからオファーが出たの、


あの会社が募集を始めたの、といった話題が喧しい。


僕は、といえばいくつかの会社に履歴書を送って


面接をしてお祈りメールを受け取って。


お祈りメールとは、


「貴殿の今後の学業、就職活動の成功を”お祈り”しています云々」といった、


祈るくらいならオファーくれ!


と、就活生を家なき子状態に追い込む非情な代物。


祈りを集めてへっぽこ学生頑張ります。





祈り。


今年、不幸にして、世界で一番祈りを集めたのは日本だと思う。


そして一番祈りの力強さを知ったのも日本。


その祈りを少しでも返そう、と思って


トルコとタイに向けて少ないけど義援金を送りました。


義援金にどこまでの効果があるのかは僕にはわからないけど、


それでも何らかの形で祈りを世界に返す義務があると思うのです。

2011年11月2日水曜日

僕と虚心坦懐の日々

今週の金曜日にFinancial Accountingの試験があるので、


必死こいて勉強しています。


試験だけならそこまで負荷は無いのだけど、


同時並行でプロジェクトや予習復習、


就活をこなさないといけないので正直目が回る。


クラスメイトも初めての試験にソワソワしている。






南米から来ている同級生は、


「今日のマーケティングの授業を聞いてて、


自分の前職のことを思い出した。


正直つらいことが多かったんだよね。


今も忙しくてぼやきたくなるけど、


一日中勉強だけをできるってすごい幸せなことだよね。」


と言っていた。




僕は留学のために会社を辞めてしまい、


方々に頭を下げて資金を工面した。


いまでもあの札束の重みは手に残っている。




愚痴を言うのは簡単。


でもそうすると、目の前の幸せが見えなくなってしまう。




今、勉強できていること、苦労できていることに感謝。


そしてピュアで素敵な友人を持てたことにも感謝。




ふと、思い出したのだけど、


僕は結構「試験前」の雰囲気が結構好きだったりする。


中学や高校の頃、部活が休みになって、普段より人口密度の高い


放課後の教室の活気が好きだった。


みんなが共通の対象を見ている感じも心地良かった。


それを今感じれて結構嬉しかったりする。






さて、勉強しよう。


昼下がりの図書館より更新。

2011年10月30日日曜日

僕と翼と白髪の日々

なかなかblogが更新できません。


忙しいんだから仕方ないよ、


と自分で自分に言い訳していたら、


隣の日本人同級生は


頻繁に更新していることが判明したので、


不明を恥じて更新しようと思います。


と、言っても、


毎日毎日、家と教室と図書館の三点観測なので、


特段ブログに載せるようなトピックもなく。


と思っていたら、


先日ス―パーで卵を買ったところ、


卵から羽根が生えてました。




まさかの有精卵!


ピンキーのハート形が出たような嬉しさで、


割ってみるとただの無精卵。


がっかり、


は、せず、


むしろ、


完全ノールックパッキングのクオリティに悶絶。


さすがイギリス。


メキシコ人にさえ(失礼)、


呆れられるサービスクオリティの国、イギリス。


日中、家にいないので、


宅急便の再配達先を学校に指定すると、


問答無用で自宅玄関前に放置する国、イギリス。


車両整備で出発時間を遅らせておいて、


途中で「やっぱり直ってなかったから後続列車に乗り換えてね」


と、のたまう国、イギリス。




そんなこんなで、今日も一日が終わります。


先日、人生で初めて白髪を自分で見つけました。


負けないように枯れないように。


カッコ悪い道と夢を選んで僕は歩く。





2011年10月10日月曜日

僕とStay hungryの日々

僕が留学を思い立った理由はたくさんある。


日本の夏が暑過ぎてスーツ着るのが嫌になったとか、


金髪のちゃんねーと仲良くなりたいとか。


でも、一番大きなきっかけはSteve Jobsのスピーチを聞いてしまったこと。





この中の、


「君たちの人生は有限だ。他人の人生を生きて貴重な時間を無駄にしちゃダメだよ。


"Your time is limited, so don't waste it living someone else's life."」


という言葉にバキューンとやられてしまったのだ。


「俺、自分の人生を生きなきゃ!」


と、スットコドッコイなことを思ってしまったのだ。


彼さえいなけりゃ、こんなアウトローな人生を送っていなかっただろうに。





そんなSteve Jobsがお隠れになられた。







以前から体調不良はささやかれていたし、


ガリガリに痩せた体からその病状がうかがわれていたけど、


それは突然だった。




人は誰しも終わりがくるわけで、


それは他ならぬJobs自身がスピーチのなかで言及していること。


「今日を人生最後の日と思って生きる」





安らかに。


たくさんのInnovationと勇気をありがとう。

2011年9月17日土曜日

僕と楽観と胃袋の日々

気付けばMBAのコースが始まって3週間が経ってしまった。


うーん、予想以上に負荷が大きい。


予習に大量のreadingをしなければいけないし(↓40cmくらいある)、





NPOのコンサルプロジェクトも始まったし、


その合間を縫って、郵便が届かないと銀行にクレームを言いに行ったり、


学校から支給された(ていうか授業料に含まれているので、自分で買ったのと同じ)


iPad2をいじり倒したり、







些細なことに落ち込んで、浮かれて。


特にコンサルプロジェクトは、


インド、ベネズエラ、バングラデシュ、台湾、日本、


の多国籍軍なので、議論もなかなかスムーズに進まない。


というより、まず時間に皆が揃わない。


来たと思ったら、「お腹すいたから」


といってピザを買いにいってしまう。


食ってから来い!!


しかも、グループの中で僕の英語力は圧倒的に劣るので、


気の利いた発言も出来なければ、議事録もろくにとれない。


ミーティングの度に、無力感が募る。


このまま、何も出来ずに18ヶ月終えるのか? 





なんて、見事にrock bottomだった時に、


同級生にちょっと愚痴をこぼした。


彼女は、


「私も正直苦労している。


恐らく今回のグループで一番貢献することは出来ないと思う。


けど、一番成長しようと思う。


ハッとした。


それと同時に思い出した。


困難に直面した時、


「あのブドウはすっぱいから」


と言って、ハナから手を伸ばそうとしない人が少なくない世の中で、


僕はカッコ悪くても手を伸ばし続けたい、と思い続けていたことを。


簡単なことだね。


今、出来ないことは


次に出来るように努力しよう。





昨日、学校のGuesst Speaker Sessionで、


Luke Johnsonというイギリス人起業家が講演をしてくれた。


http://www.lukejohnson.org/


お題は「Optimism」。


自身の経験を踏まえた激励の言葉の数々に胸が熱くなった。


未来は楽観の下にある。




講演の後はアジア人仲間(ロシア人含む)で中華ディナー。


北京ダックは自分史上最高にうまかった。




幸福は胃袋の中にある。

2011年9月5日月曜日

僕と暗中模索の日々

MBAのコースが始まりました。


我が、Manchester Business School Class of 2013は31の国・地域から115名が集結。


なんともバラエティに富んだ面々が揃っている。


刺激的な日々に胸を躍らせている、




と、言いたいのだけど、


現実はそう甘くもなく、


英語がわからず、相も変わらず悪戦苦闘の日々。


なんで高い金払って、こんな辛い思いをしてるんだろう?




何者かになりたくて来たイギリスで、


何者にもなれない現実に直面している。





そんな、rock bottomなある日、


同級生のポルトガル人と道を歩いていた。


彼はカールスバーグを片手にふと、


「日本ってすごい国だよな!」


と言い出した。


「地震のこと?」


って聞き返すと、


「それももちろんだけど、16世紀にポルトガルと貿易をして


独立を維持出来たのは日本だけなんだぜ!


それに、たった2丁のライフルを手にして、


数年後には何万丁も自分たちで作っちゃうんだから、マジですげーよ。」


「貿易じゃなくて侵略だろ?」


と揚げ足取ったら、


「俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、


日本人はすげーってことなんだよ、とにかく!


それに今回の津波の後で、云々。。。」


とまくしたてられた。


落ち込んでいた僕は、まるで自分が褒められたように感じてしまい、


ちょっと涙ぐんでしまった。





でも、そのすごい日本人は400年前の人たちで、


今の僕が胸を張れることなのだろうか?


先達の利子でメシを食ってるだけだったりしないだろうか?


「すごいな!」


と言われて、確かに悪い気はしないのだけど、


「すごいだろ!」


と胸を張って応えられないと思ってしまう。




胸を張れる僕に、僕はこの18ヶ月で近づきたい、と思う。





2011年8月29日月曜日

僕と出会いに感謝の日々

東京に、ある一件のバーがある。


大都会の喧噪にあって、


そこだけ時が止まったかのような空間。


夫婦だけで30年以上切り盛りしてきたその店には、


夜な夜な多くの酔っぱらい大人が集い、


まるで井上ひさしの戯曲のような悲喜交々が織りなされる。



ある日、僕は大学の先輩に連れられてその店を訪れた。


10人座れば満席になってしまうような空間に、


たくさんの「大人」が肩を寄せ合ってお酒を飲んでいた。


皆さん、立派な社会的地位をお持ちの方々ばかりだった。


僕の知らない世界をたくさん知っている人たちとの会話に、


僕はすっかり夢中になっていた。


その席で、僕はあるデザイナーの方と知り合った。


聞くとロンドン在住とのこと。


「僕、夏からマンチェスターに行くんです!」


彼女は一言、「くれば」


といって住所を教えてくれた。


そして2ヶ月後、


僕は彼女のロンドンの自宅に1週間滞在していた。


マンチェスターで栄養失調に陥っていた僕に、


滋味深い手料理を振る舞ってくれた。


お礼にと、家の模様替えを手伝ったり、買い物に行ったりした。


折角ロンドンにいたのだけど、


観光はあまりせず、彼女とのお喋りを楽しんだ。


宇宙人と出会った話。


バブルの頃の羽振りの良い話。


アフリカ人アーティストの表現欲求の話。


怖いもの知らずと世間知らずの違いの話。


利殖の話。


鍋でご飯を炊く方法。


その全てが僕には新鮮で刺激的だった。




そして滞在中に僕は28歳になった。


中国で知り合った日本人の友人とその友人2名に誕生日を祝ってもらった。


デザイナーさんも上記の友人もその前に一度会ったことがあるだけ。


そんな人たちとロンドンで誕生日を迎えている自分がとても不思議だった。




思えば、26歳の誕生日をテキサスで迎え、


27歳の誕生日に会社を辞めることを決め、


28歳はロンドンで。


平坦ではないし、見通しもひどく悪く、不安は尽きないけど、


僕は結構面白い人生を送れている気がする。


それも全て周囲の多くの面白い人たちのお陰。




今日も多くの素晴らしい出会いの連鎖に感謝。


そして、そんな人生を楽しむ機会を与えてくれた両親に感謝。






僕と怪獣大行進の日々

少し前のことになるのだけど、


スコットランドはエジンバラへ行ってきた。


あまり日本人にはなじみのない街かもしれないけど、


40代以上の方の中にはベイシティ・ローラーズ


出身地としてご記憶の方もあるかもしれない。





↑若い人はこの曲きいたらゴリエを思い浮かべるんだろうけど、


当時は絶大な人気を誇ったそうな。





エジンバラは、


美しかった。



中世の町並みがそのまま残っている感じ。


通りを曲がるとハイド氏とばったり遭遇しそうな雰囲気。





で、何を隠そう貧乏学生の僕は、


コストを安くあげようと、ユースホステルに泊った。


webで予約をしたのだけど、


予約画面に、「mix dorm」と書いてあった。


Mix dorm、直訳すれば混浴ならぬ混室!


ちょっと椅子から腰が浮いたけど、


「まあ、そうは言ってもどうせ男ばかりの部屋で、良いとこゲイ止まりでしょ。」


とシニカルに考えていた。


期待すると馬鹿をみる国ですよ、ここは。




ホステルにチェックイン。結構きれい。




部屋は4人部屋。




部屋に入ると、なんとそこにはパツキンのチャンネーが!!


聞くとアメリカから旅行に来ている3人組とのこと。


混室万歳!!


日本人無職VSアメリカ人女子大生3人娘 in 密室!


金髪3人だからキングギドラだ!


ゴジラVSキングギドラ、名勝負の予感。。。


こりゃあ、何かが起こるやもしれんと、


興奮しながら夜更けを待つ。




パブで軽く飲んで、


頃合い(何の?)を見計らって部屋へ戻る。


追い風には乗ることが俺のポリシーさ。


ドキドキ。


ドキドキ。


心臓が高鳴っている。


。。。


。。。


心臓の音がうるさ過ぎる。


。。。




あれ、


心臓の音じゃないぞ?


、、、


、、、


、、、


、、、


イビキだ!!




なんとキングギドラはそろいもそろって、


ジャイアン並みの激しいイビキをかいて寝穢く寝ていた。


、、、


結果的に僕は眠れない夜を彼女たちと過ごした。

キレイな鼻には刺ならぬ提灯があった。



2011年8月17日水曜日

僕とアパマンショップな日々

帰る場所ができました。


普段は斜に構えて、近づくもの皆傷つけようとしているけれど、


実はサミシ・ガーリな僕。


でもあまり干渉されるのは好きではないので、


やっぱりへそ曲がり。




マンチェスターに来て2週間弱、


その間、抜け毛に神経を逆立てたり、


乗るバスを間違えて見ず知らずの街へ行ってしまったり、


暴動が起こったり、


財布無くしたり(これは未だにショック)、


スペイン人にヨーグルト食われたり、、、


色々なことがあったけど、


ようやくフラット(アパート)が決まりました。









マンチェスターの中心街のほど近く、


東京で例えれば、裏原的、吉祥寺的な場所です。


(かなり言い過ぎ)





思えば、大学卒業まで実家で育ち、


会社員時代も社員寮に入っていたので、


27歳にして、イギリスでよもやの賃貸デビュー。




物件見学でどこをチェックしたらよいのかわからないので、


とりあえずビー玉を転がしたら、





不動産屋のMarkさんに訝しがられた。


まあ、よくわからないので、ノリで一発サイン!


日本人同級生(年上♂)との濃密な同棲生活の開始です☆






、、、


、、、


マンチェスターはゲイの街なので、




連れ添って布団やシーツを買う僕らは、


きっとそう見えることでしょう。。。



2011年8月15日月曜日

僕と英語の真剣勝負の日々 in Manchester

英国生活、やはり言葉の壁がネックになる。

ずっと勉強してきているとはいえ、実際に使っていると

思わぬハプニングが起きたりする。

先日、同級生とパブへ行った。



イギリスと云えばパブ、Public houseが略されてPub、

というくらいだから、紳士の社交の場だ。

初対面の人が多かったので自己紹介が話の中心。

イギリス、インド、アメリカ、南米、東南アジア、中国、

それぞれのバックグランドがバラバラなので話していておもしろい。

飲み物はビールが中心。

pint(約550ml)単位なので、すきっぱらで飲むと

お腹がたぷたぷ。

しかも、つまみもなく飲むので、3杯ほどで酔ってしまった。



翌朝、若干の頭痛とともに起床。

すっかり酒に弱くなっている。



フラットメイトに会って、「昨日は飲み会でさ〜」なんて喋っている時に、

ふと、「この間知った新しい英語を使ってみよう!

と天使が脳内でささやいた。

「二日酔い = hangover」

しか知らなかったのだが、

「morning after」という表現を本を読んでいて知ったのだ。

語学は実践がキメテ!

ということで意気揚々と、

"I've got morning sick!"と言った。



すると彼女の表情が一気に曇った。

何が起こったのか悟るには十分な時間が経ったあと、

僕は猛烈な勢いで弁明をした。





「morning sick(ness) = つわり !!




なんだかセクハラと勘違いされてしまったらしい。

英語の下手な日本人無職男性が英国でハレンチ行為!




、、、

夕刊○ジの見出しみたいだ。



すぐに誤解は解けたのだけど、 英語上達の道はなかなか険しい。。。

2011年8月11日木曜日

僕とマンチェスター暴動

日本でも報道がされているようだけど、

8月9日、ここマンチェスターでも暴動が起きました。



その日、僕はたまたま、日本人の同級生のお宅にお呼ばれしていました。

彼のフラットは地上42階。

そこからはスーパーに突撃する暴徒の姿がくっきり。

パトカーが行ったり来たりする様子もくっきり。

上空には報道のヘリコプター。

BBCはシティセンターの騒乱を伝えている。

いやあ、怖かった。

映画を観ているようだったけど、これは現実。



ある人がツイッターで「日本の成人式の馬鹿騒ぎと基本は一緒。」

と呟いていたが、全く同感。

彼らに主義思想はない。ただ暴れたいだけ。

BBCのインタビューに応えたガキは、

「ただで色々なモノを獲れるんだから、やらなきゃ損だよ!」

と最低なことを言っていた。




その日は帰れる気がしなかったので、同級生宅に泊めてもらった。

翌朝、暴動の跡を見に、街中まで行ってみた。

ナイキやヴィトンのショーウィンドウや、スーパー、銀行の入り口が

軒並み破壊されている。




火事の跡も生々しい。


救いは、街には多くの若者が

ボランティアとして清掃に従事していたこと。

↓の彼はデッキブラシを片手にじっと火事の跡を見つめていた。


何を彼は思っていたのだろう。



破壊をするのもガキなら、それを片付けるのも若者。

僕は恐ろしいやら悲しいやらバカらしいやら、でも誇らしいやらで、

わけがわかんなくなって、なんだか涙が出てきた。









僕と英国生活開始の日々

留学前に、留学の動機や準備を振り返っておこう、

と思ってblogをはじめたのだけど、

それらを書く前にイギリスに来てしまった!

僕のイギリス留学開始!!

8月3日に日本を発って、

シンガポール、ミュンヘンを経由してマンチェスターに到着。





乗り換えの待ち時間や空港からの移動も含めておよそ30時間!

の大移動。船だったら小笠原まで行けてしまう。

クタクタになって辿り着いたマンチェスターは雨、雨、雨。

しかも気温は15℃くらい。寒い。

疲労と天候でテンションはどん底。

フラットが決まるまでの滞在先である寮へ

電車とタクシーを乗り継いで向かう。

寮はこんな感じ↓



無事に到着して、早速シャワーを浴びようとするも、

お湯の出し方がわからない。。。

裸になって濡れてしまっているので、

再びレセプションまで行く気力は無い。

加えて、電話で使い方を理解する自信も無い。

ので、結論は冷水シャワー。

寒いので、さらっと洗ってすぐに出る。

せっかく日本からスカルプDを持ってきたのに、

すすぎが甘かったら何の意味もない。

マンチェスターに来てハゲてしまったら、

心ない人から「ルーニー!」と後ろ指を指されてしまう



それだけは避けなければ。。。



洗面所の鏡に映る僕の目は赤くなっていた。

「こっから這い上がろう」

僕のイギリス奮闘生活はこうして始まった。

2011年6月17日金曜日

僕とネコの21年

2011年3月ー。

この月は今後永遠に人々に記憶されるだろう。

そして、

僕、個人としても忘れられない月になると思う。

大学院に受かった?

そう、それも2011年3月。

失業保険支給終了?

そう、それも2011年3月。

(これはこの先もう何回か経験するかも。。。)

僕にとって2011年3月は、21年間連れ添った愛猫ペロ(メス)

との別れとして記憶されると思う。

僕たちが出会ったのは僕が小学校2年生の時。

野良猫を僕が拾ってきたのだ。

与えたおにぎりを銀紙ごと「ぺろっ」と食べてしまったので、

「ペロ」と名付けた。

ペロ↓






ちなみに一緒に食された銀紙はペロの消化液にさらされながらも、

純銀のインゴットのような「銀色のフン」となり、再び日の目をみた。

この出会いの顛末をしたためた作文は区のコンクールで入賞までしてしまった。

そこでテングにならなかったら、

もう少し協調性のある大人になっただろうに。



それからあっという間に21年の時が流れてしまった。

会社を辞めて、実家に戻った僕。

毎日毎日、家に引きこもって勉強をしていた。

家には僕とペロふたりだけ。

お互い、ニート同士、相通ずるものがあった。

でも、人間で言えば100歳超のご老体。

粗相が増えたり、ジャンプが出来なくなったり、夜泣きをしたり、

「老い」が目立つようになっていた。

自然、介護の場面も増えていた。

朝起きて、一番にすることがペロのおしっこを拭くことだった。

正直、小憎らしく思うこともあった。

「早く逝ってしまえ」とさえ思っていた。





3月1日。

朝、いつものようにおしっこを拭いて、エサをあげて、

僕は珍しく外出をした。

夕方帰宅すると、リビングから尋常でない鳴き声が聞こえた。

「あれ、朝エサあげなかったっけ?」

なんて、おなかが空いているだけだろうと思って自室へ入った。

しばらくすると母が帰ってきた。

「ちょっと来て!」

強い口調で呼ばれる。

「あれ、なんかばれたかな?」

思い当たる節は山のようにあるので、「どれだ?」

と、訝りながら居間へ。

、、、

もう、ペロは旅立っていた。

普段はポコポコ膨らむお腹が、まったく動かない。

目も口も少し開いてしまっている。

母の慟哭を背中で聞きながら僕はペロに手を当てた。

まだ、ほんのり温かい。

そして、目と口を閉じてやった。

連絡を受けて急遽帰宅した父も妹も、ペロの前で号泣していた。

父が声を上げて泣く姿なんて初めて見たのでショックだった。

翌日、ペット葬儀屋に連絡をして火葬をしてもらった。

焼き場に入れる時に持ち上げたペロは氷のように固かった。

枕代わりにして寝るくらいホワホワだったのに。




ペロが逝って、家の中は火を消したように静かになってしまった。

母は数日会社を休んでいた。

居間へ行くと、無意識のうちにペロが寝ていた場所を見てしまう。

あんなに小さな体で、家族4人を支えてくれてたんだなと、

いなくなってから気付いた。




僕は泣いていなかった。

目を閉じた時も、火葬の時も、僕は泣かなかった。

僕が泣いたのは、数日が経過してからだった。

何気なく、googleに「ネコ 最期」と打ち込んでみた。

「ネコって死ぬ時は飼い主から隠れて死ぬ」っいうよな、なんて思いながら。

表示されたページには、

「家の中だけで飼われていたネコは隠れない。むしろ飼い主の目の前で息を引き取ろうとする。」

とあった。

その瞬間、僕の頭の中で、ペロの鳴き声が響いた。

・・・

「呼んでたんだ。あの時、最期を看取って欲しくて俺を呼んでたんだ。」

そう思い至ると、涙が溢れ出てきた。

「なんで行ってあげなかったんだろう。」

後悔ばかりが募った。




実は、3月1日は両親の結婚記念日でもある。

寂しがりやのペロだから、自分が逝った日を忘れて欲しくなかったのだろう。




それから3ヶ月。

我が家に新しいネコがやってきた。

名前はタロウ。








ペロがいなくなって、震災が起きたりで、

食事時もなんとなく雰囲気が暗かったのだけど、

タロウが来て数日。

格段に家族の会話が増えている。

みんなの帰宅時間も早くなった。

ありがとう、ペロ。

タロウ、これからもよろしくね。

2011年6月14日火曜日

僕と英語と時々ダイエットの日々

さて、英語を勉強(正確にはTOEIC対策のお勉強)しようと決意し、

マニュアル本も手に入れた僕は、なんだかストイックな男になっていった。

それまで週4くらいで飲みに行っていたのに、一切行かなくなり、

終業後はまっすぐ帰宅して勉強。

土日は一日中ガストで、ドリンクバーで粘りながら勉強する、

という日々が続いていった。

前にも書いたけど、彼女にフラれたばっかりで、

他に時間の使い道がなかったのだ。

その頃主に使っていた参考書は、

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができるという本。

英語の「音」を覚えて、「使える」ようになれば「聞こえる」ようになる、

というのが著者の主張。

これを毎朝、毎晩音読し続けた。

そのうち、用事があって音読出来ない日があったりすると、

気持ち悪くなるくらい習慣になっていった。

飲み会がある日は、いったん家に帰って音読をしてから飲みに行く

なんてこともしていた。

当時は会社の横の独身寮に住んでいたのでこんなこともできた。





ストイックな日々は英語だけによってもたらされたものではなかった。

当時、社会人生活で酒浸りになっていた

僕の四肢は見事なまでにデブっていた。

春の健康診断では高脂血症という、ありがたい宣告も受けていた。

一つ言い訳をするなら、

「関西の食べ物が美味し過ぎた」のだ。

東京生まれ東京育ちの若造には、

粉もんやホルモンや串カツは美味過ぎた。

いや、ホントに食いまくってた。

それでも血液のことは自覚症状が無いのでほったらかしていた。

僕が本当に自分がデブだと悟ったのは、この年の夏。

友人と高知県の四万十川にキャンプに行ったときのこと。

最後の清流で、まわりに人がいないのを良いことに僕は真っ裸で泳いでいた。

とっても気持ち良く泳いでいた。

その様子を友人がカメラに収めていて、後日CD-Rに焼いてくれた。

夏の思い出を楽しもうとビール片手にパソコンを起動させ、読み込ませる。




・・・









・・・








・・・







・・・







・・・





・・・「誰、この熊??」

スクリーンに映っていたのは、

小麦色に焼けたスイマーではなく、



遡上する鮭を狙って川にきたヒグマのようにでっぷりした僕だった。

ちょうどこんな感じ↓


「俺、こんなデブいんだ。。。」

その日からストイック生活にダイエットという項目が加わったのでした。

2011年6月11日土曜日

僕と英語の格闘の日々②

英語を勉強しよう!

と、決意したは良いものの、

いかんせん今まで受験勉強以外に英語を勉強したことがないので、

どこから手をつけて良いのかさっぱり分からない。

「先ずは単語かな?」

なんて、大学受験の発想でとりあえず最寄りの大型書店へ。

大量の語学参考書に圧倒されていると、一際目立つ装丁の本が目に留まる。

それが海外経験ゼロ。それでもTOEIC900点―新TOEICテスト対応という本。



何と言うか、タイトルがまさに「なりたい自分」を的確に表していた。

単語集のことはすっかり忘れて、

「俺もTOEIC900点だ!」と、速攻レジへ。

この本は広告代理店に勤める著者が、

2年かけて独学でTOEIC500→900を達成したノウハウを伝える、

といった内容。

その主張するところは、

「やり方を間違えないで、継続的に勉強し続ければ必ず、

誰でもTOEIC900点はとれる!」

というもの。

「よし、どうせなら俺も900点を目標にやってみよう」

当時、僕は地方の工場勤務だったので残業はほとんどなく、

比較的自分の時間を確保する余裕があった。

この本は勉強のテクニックもさることながら、

「やればできる、俺も出来るはずだ」

と思わせてくれるモチベーターとしての役割が非常に大きかった。

予定よりも少し遅れて、この日から約2年半後。

僕はTOEIC900点を達成するのだが、それはまた別のお話。

2011年6月10日金曜日

僕と英語の格闘の日々①

僕が留学を決めた理由について書きたいと思う。

その前にそもそも英語を勉強するきっかけについて備忘録も兼ねて書いておこう。

自分で言うのも情けなくなってしまうが、僕は俗に言う「まるドメ」「純ドメ」という人間だ。

正確には「だった」かな?

高校時代から特に英語が得意だったわけでもなく、

大学時代には英語の授業についていけないくらい英語が苦手だった。

大学時代に仲の良い友達数名が交換留学で海外へ行っていたが、

自分はコンプレックスも手伝って「けっ」と極めてシニカルな態度で彼らをみていた。

迎えた大学4年生の春。

就職活動に勤しんでいた僕は、幸いにも複数の企業から内定を頂いた。

もともとメーカー志向だったので(今となってはそれも視野が狭かったと反省するが)、

最終的には日系の化学メーカーと米系の素材メーカーの二つで迷うことになった。

どちらも甲乙付けがたかったのだけど、日系へ行くことにした。

一番の理由は「米系は社長がアメリカ人で英語が怖い」というものだった。

なんとも情けない限り。

まあ、それだけ英語に苦手意識があったんです。

その風向きが変わったのが社会人二年目の初夏。

何気なく受けたTOEICの点数に愕然としたからだ。

440点ー。

当時僕が勤務していた会社は社内の昇格基準の一つに「TOEIC 450点」を定めていた。

「俺、昇格出来ないじゃん!!」

ちょうど、同じ月に大学時代から付き合っていた彼女と別れていた僕には時間だけがたっぷりとあった。

その日から僕の英語との長く果てしないお付き合いが始まった。