2011年6月17日金曜日

僕とネコの21年

2011年3月ー。

この月は今後永遠に人々に記憶されるだろう。

そして、

僕、個人としても忘れられない月になると思う。

大学院に受かった?

そう、それも2011年3月。

失業保険支給終了?

そう、それも2011年3月。

(これはこの先もう何回か経験するかも。。。)

僕にとって2011年3月は、21年間連れ添った愛猫ペロ(メス)

との別れとして記憶されると思う。

僕たちが出会ったのは僕が小学校2年生の時。

野良猫を僕が拾ってきたのだ。

与えたおにぎりを銀紙ごと「ぺろっ」と食べてしまったので、

「ペロ」と名付けた。

ペロ↓






ちなみに一緒に食された銀紙はペロの消化液にさらされながらも、

純銀のインゴットのような「銀色のフン」となり、再び日の目をみた。

この出会いの顛末をしたためた作文は区のコンクールで入賞までしてしまった。

そこでテングにならなかったら、

もう少し協調性のある大人になっただろうに。



それからあっという間に21年の時が流れてしまった。

会社を辞めて、実家に戻った僕。

毎日毎日、家に引きこもって勉強をしていた。

家には僕とペロふたりだけ。

お互い、ニート同士、相通ずるものがあった。

でも、人間で言えば100歳超のご老体。

粗相が増えたり、ジャンプが出来なくなったり、夜泣きをしたり、

「老い」が目立つようになっていた。

自然、介護の場面も増えていた。

朝起きて、一番にすることがペロのおしっこを拭くことだった。

正直、小憎らしく思うこともあった。

「早く逝ってしまえ」とさえ思っていた。





3月1日。

朝、いつものようにおしっこを拭いて、エサをあげて、

僕は珍しく外出をした。

夕方帰宅すると、リビングから尋常でない鳴き声が聞こえた。

「あれ、朝エサあげなかったっけ?」

なんて、おなかが空いているだけだろうと思って自室へ入った。

しばらくすると母が帰ってきた。

「ちょっと来て!」

強い口調で呼ばれる。

「あれ、なんかばれたかな?」

思い当たる節は山のようにあるので、「どれだ?」

と、訝りながら居間へ。

、、、

もう、ペロは旅立っていた。

普段はポコポコ膨らむお腹が、まったく動かない。

目も口も少し開いてしまっている。

母の慟哭を背中で聞きながら僕はペロに手を当てた。

まだ、ほんのり温かい。

そして、目と口を閉じてやった。

連絡を受けて急遽帰宅した父も妹も、ペロの前で号泣していた。

父が声を上げて泣く姿なんて初めて見たのでショックだった。

翌日、ペット葬儀屋に連絡をして火葬をしてもらった。

焼き場に入れる時に持ち上げたペロは氷のように固かった。

枕代わりにして寝るくらいホワホワだったのに。




ペロが逝って、家の中は火を消したように静かになってしまった。

母は数日会社を休んでいた。

居間へ行くと、無意識のうちにペロが寝ていた場所を見てしまう。

あんなに小さな体で、家族4人を支えてくれてたんだなと、

いなくなってから気付いた。




僕は泣いていなかった。

目を閉じた時も、火葬の時も、僕は泣かなかった。

僕が泣いたのは、数日が経過してからだった。

何気なく、googleに「ネコ 最期」と打ち込んでみた。

「ネコって死ぬ時は飼い主から隠れて死ぬ」っいうよな、なんて思いながら。

表示されたページには、

「家の中だけで飼われていたネコは隠れない。むしろ飼い主の目の前で息を引き取ろうとする。」

とあった。

その瞬間、僕の頭の中で、ペロの鳴き声が響いた。

・・・

「呼んでたんだ。あの時、最期を看取って欲しくて俺を呼んでたんだ。」

そう思い至ると、涙が溢れ出てきた。

「なんで行ってあげなかったんだろう。」

後悔ばかりが募った。




実は、3月1日は両親の結婚記念日でもある。

寂しがりやのペロだから、自分が逝った日を忘れて欲しくなかったのだろう。




それから3ヶ月。

我が家に新しいネコがやってきた。

名前はタロウ。








ペロがいなくなって、震災が起きたりで、

食事時もなんとなく雰囲気が暗かったのだけど、

タロウが来て数日。

格段に家族の会話が増えている。

みんなの帰宅時間も早くなった。

ありがとう、ペロ。

タロウ、これからもよろしくね。

2011年6月14日火曜日

僕と英語と時々ダイエットの日々

さて、英語を勉強(正確にはTOEIC対策のお勉強)しようと決意し、

マニュアル本も手に入れた僕は、なんだかストイックな男になっていった。

それまで週4くらいで飲みに行っていたのに、一切行かなくなり、

終業後はまっすぐ帰宅して勉強。

土日は一日中ガストで、ドリンクバーで粘りながら勉強する、

という日々が続いていった。

前にも書いたけど、彼女にフラれたばっかりで、

他に時間の使い道がなかったのだ。

その頃主に使っていた参考書は、

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができるという本。

英語の「音」を覚えて、「使える」ようになれば「聞こえる」ようになる、

というのが著者の主張。

これを毎朝、毎晩音読し続けた。

そのうち、用事があって音読出来ない日があったりすると、

気持ち悪くなるくらい習慣になっていった。

飲み会がある日は、いったん家に帰って音読をしてから飲みに行く

なんてこともしていた。

当時は会社の横の独身寮に住んでいたのでこんなこともできた。





ストイックな日々は英語だけによってもたらされたものではなかった。

当時、社会人生活で酒浸りになっていた

僕の四肢は見事なまでにデブっていた。

春の健康診断では高脂血症という、ありがたい宣告も受けていた。

一つ言い訳をするなら、

「関西の食べ物が美味し過ぎた」のだ。

東京生まれ東京育ちの若造には、

粉もんやホルモンや串カツは美味過ぎた。

いや、ホントに食いまくってた。

それでも血液のことは自覚症状が無いのでほったらかしていた。

僕が本当に自分がデブだと悟ったのは、この年の夏。

友人と高知県の四万十川にキャンプに行ったときのこと。

最後の清流で、まわりに人がいないのを良いことに僕は真っ裸で泳いでいた。

とっても気持ち良く泳いでいた。

その様子を友人がカメラに収めていて、後日CD-Rに焼いてくれた。

夏の思い出を楽しもうとビール片手にパソコンを起動させ、読み込ませる。




・・・









・・・








・・・







・・・







・・・





・・・「誰、この熊??」

スクリーンに映っていたのは、

小麦色に焼けたスイマーではなく、



遡上する鮭を狙って川にきたヒグマのようにでっぷりした僕だった。

ちょうどこんな感じ↓


「俺、こんなデブいんだ。。。」

その日からストイック生活にダイエットという項目が加わったのでした。

2011年6月11日土曜日

僕と英語の格闘の日々②

英語を勉強しよう!

と、決意したは良いものの、

いかんせん今まで受験勉強以外に英語を勉強したことがないので、

どこから手をつけて良いのかさっぱり分からない。

「先ずは単語かな?」

なんて、大学受験の発想でとりあえず最寄りの大型書店へ。

大量の語学参考書に圧倒されていると、一際目立つ装丁の本が目に留まる。

それが海外経験ゼロ。それでもTOEIC900点―新TOEICテスト対応という本。



何と言うか、タイトルがまさに「なりたい自分」を的確に表していた。

単語集のことはすっかり忘れて、

「俺もTOEIC900点だ!」と、速攻レジへ。

この本は広告代理店に勤める著者が、

2年かけて独学でTOEIC500→900を達成したノウハウを伝える、

といった内容。

その主張するところは、

「やり方を間違えないで、継続的に勉強し続ければ必ず、

誰でもTOEIC900点はとれる!」

というもの。

「よし、どうせなら俺も900点を目標にやってみよう」

当時、僕は地方の工場勤務だったので残業はほとんどなく、

比較的自分の時間を確保する余裕があった。

この本は勉強のテクニックもさることながら、

「やればできる、俺も出来るはずだ」

と思わせてくれるモチベーターとしての役割が非常に大きかった。

予定よりも少し遅れて、この日から約2年半後。

僕はTOEIC900点を達成するのだが、それはまた別のお話。

2011年6月10日金曜日

僕と英語の格闘の日々①

僕が留学を決めた理由について書きたいと思う。

その前にそもそも英語を勉強するきっかけについて備忘録も兼ねて書いておこう。

自分で言うのも情けなくなってしまうが、僕は俗に言う「まるドメ」「純ドメ」という人間だ。

正確には「だった」かな?

高校時代から特に英語が得意だったわけでもなく、

大学時代には英語の授業についていけないくらい英語が苦手だった。

大学時代に仲の良い友達数名が交換留学で海外へ行っていたが、

自分はコンプレックスも手伝って「けっ」と極めてシニカルな態度で彼らをみていた。

迎えた大学4年生の春。

就職活動に勤しんでいた僕は、幸いにも複数の企業から内定を頂いた。

もともとメーカー志向だったので(今となってはそれも視野が狭かったと反省するが)、

最終的には日系の化学メーカーと米系の素材メーカーの二つで迷うことになった。

どちらも甲乙付けがたかったのだけど、日系へ行くことにした。

一番の理由は「米系は社長がアメリカ人で英語が怖い」というものだった。

なんとも情けない限り。

まあ、それだけ英語に苦手意識があったんです。

その風向きが変わったのが社会人二年目の初夏。

何気なく受けたTOEICの点数に愕然としたからだ。

440点ー。

当時僕が勤務していた会社は社内の昇格基準の一つに「TOEIC 450点」を定めていた。

「俺、昇格出来ないじゃん!!」

ちょうど、同じ月に大学時代から付き合っていた彼女と別れていた僕には時間だけがたっぷりとあった。

その日から僕の英語との長く果てしないお付き合いが始まった。